美奈子は結婚前に趣味でやっていたチェロを売りに出すことにした。勤務地の関係などで、練習もままならず、また、狭い我が家にもってきても仕方がないので、線路向こうの(美奈子の)実家に置いてもらっている。しかし、練習する時間はない。誰にも相手にされない楽器ほど悲しいものはない。

そこで、音楽の友という雑誌に「売り」の広告を出した。雑誌の発売日は出発の日と同じである。
雑誌の発売日の前日、つまり出発の前日、早速電話がかかって来て引き渡す段取りまで決めた。
しかし、次の日他の人から電話来たので美奈子は断ったのだが、その人は「近くまで来ているので見るだけでいいから見せてくれ。」と粘った。そして美奈子はその人に自分のチェロを見せることになり実家まで案内した。

その人は始めのうちは見るだけという感じであったが、そのうち色々話を持ち出しては「自分は(家族ぐるみで)こんなにまじめに音楽をやっている。」ということアピールし始めた。少し美奈子の気持ちが傾いたところで、その人は「実は、お金も用意してきたんです。」と、お金を胸のポケットから出してきた。
美奈子は「先に売ることを約束した方になんと話をすれば良いのだろう」と言い出す。目の前の強引なおじさんは「私がうまく話をつけましょう」とい始め、もう後には引かない姿勢である。美奈子も根負けしたようで、渋々ではあるが納得しお金を受取り楽器を引渡した。そして先に電話を架けてきた人に、どのように話をしたら良いか強引なおじさんも交えて会議が始まった。
「適当な嘘をついて諦めてもらおう」という案もでたが、美奈子は「嘘はつきたくない」と言う。そこで目の前のおじさんは「わかりました、明日、私が本当のことを言って先方さんに納得して頂きましょう」と、どこまでも強気である。美奈子は渋々ではあるが、納得したようであった。

この事については、これにて一見落着とみえたが、美奈子の心の中ではそうではなかった。「あの人に売る気は全く無かった。」と悩み始めた。
そして、強引なおじさんが帰った後、美奈子は「やっぱり私が話をつける」と言いだし、強引なおじさんに連絡をとり、その後に先約の方に連絡を取る事にした。段取りを決めた後でも美奈子は悩み続けているようであった。

私は与那国に旅立つにあたり、色々と話すべきだと思っていたが、美奈子の頭はチェロのことで頭がいっぱいのようだ。
与那国に旅立つ前日、私と美奈子は気まずい夜を過ごした。