□ 複雑な気持ち
オバマくんを迎えるにあたり、夜ノ森の町を見に行った。人がいない町。頑丈な重石がついたガードレールとゲートが続く景色。異様だと感じたが、その時は深く考えなかった。

おばまと暮らして約10ヶ月。今、夜ノ森の写真を見ると複雑な気持ちになる。


飼われてはいないけど、人のおこぼれをもらったり、時には家の中に入れてもらったりするのを野良猫というらしい。
人間が全くいない山の中や広大な湿地帯などで暮らしているのを野猫(のねこ)というらしい。同様の犬は野犬(のいぬ)というらしい。
随分と昔にこのことは勉強したが、野猫や野犬を遠くで見たことはあっても、それ以上の接点はなかった。

オバマくんを迎えたいと申し出た時、野猫について説明を受けた。人間がいなくなった町で暮らすようになった猫は、たとえ元が飼い猫であったとしても、食に対する感覚が変わると。説明をしてくださった方も説明に苦慮していたことを記憶している。それは共に暮らしてみなければ分からないことだった。
「人が食べ物をあげる」「人から食べ物をもらう」という関係が理解出来ないのだ。自分で判断して食べ物を得る、という感覚しかない。この時間でこの状況になると、あそこに食べ物が出てくる。その状況の中の一つが人間であり、そこに「あげる」「もらう」の関係ではなく、自分の知識と経験で得ている。
例えばこんな感じなのだと思う。人間は、夕方の決まった時間に部屋を出て行き、戻ってきたときは、何処かに食べ物を落とす。それを知っているのは今のところ自分だけのようだ。毎日落とす人間も気づいていない。他の誰にも気づかれないように、出来るだけ早く食べなければ、自分は食べ物にありつくことできない…

そういう感覚であろうおばまと暮らして、実害はほとんどない。しかし、やりきれない切なさはある。おばまは完全室内飼いになって幸せなのだろうかと。

だいぶ話は逸れるが、住宅地などでの猫の問題がある。現在、解決方法として「捕まえて、避妊・去勢手術をして・元の場所に戻す」という方法が一般的になってきている。
元の場所に戻すのではなく、飼い猫(完全室内飼い)にしようと考えてる人もいる。しかし、多くの人の経験から、元の場所(屋外)に話すのがベターだとなっている。

野良猫でさえそうなのだから、野猫を都会の飼い猫にすることには、疑問を抱いてしまう。


夜ノ森の冬は厳しいらしい。冬に命を落とす猫も少なくないだろう。平均寿命も長くないだろう。それでもそこは彼らの生まれ故郷であり、自らの能力で生き延びてきた。
その猫たちが人間に保護されれば、日々の安全を約束され、食べものを提供され、時には充分な医療を供給され、たぶん長生もきするだろう。
猫たちにとっては、どちらがいいのだろうか。
我が家に来て約10ヶ月。安全を提供しても安心を実感してくれないおばまを見ていると、答えが出せなくなってしまう。


人と猫を一緒にしてはいけませんが、似たようなことを考えることがある。
福島の地元で暮らしてきた人たちが、ある日突然避難をさせられてしまう。そのまま帰ることは出来ずに、別の場所、全く知らない場所で暮らすことになる。気候も風土も違う。感覚が違うこともあるでしょう。そんな環境で生きてゆかなければならない。
あの地震の前も後も同じ家で暮らし続けている私などには、想像も出来ない気持ちで今も生活していることとおもいます。

おばまを迎える前、2014年6月29日に夜ノ森駅近くまで行ったときの写真を見る度に、今はそんなことをおもいます。

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